ボウリングの歴史について勉強してみましょう!

 BC5200年ころ
 エジプト豪族、子供の墳墓よりボウリングの原型とされる石製のボールとピンが発見
 されました。(BC3000年という説もある) これがボウリングのルーツ?


 BC2000年ころ
 イタリアのアルプス地方で、ボウリングの原型とされる、目標に向かって石を下手投
 げで投げる 「バッチ」というゲームが行われていました。(現在も行われている)


 紀元3世紀〜4世紀


 北イタリアで楽しまれたボウリングは、やがてヨーロッパ各地の貴族階級へと普及
 発展していきました。
 ボウリングはこの時、スポーツではなく、寺院内で信者の信仰心を試す宗教的な
 儀式の一つとして行われていました。


 AD200〜300年
 ドイツ・ゲルマン民族の祖、チュートン人のボウリング「ケーゲル」が流行。


 10世紀〜17世紀


 ヨーロッパにドイツのケーゲル。イギリスのスキトルス。フランスのブールが流行。
 (いずれも各国のボウリングスタイルの名称)この時、ボウリングは今現在の10本の
 ピンで行うテンピンではなく、9本のピンによるナインピンでした。 漢字では「九柱戯」
 16世紀には宗教改革で有名なマルティン・ルターもボウリングを楽しんだと言われて
 います。このルターがボウリングルール(ナインピンズ)の基礎を作ったという説もあ
 ります。



 1385年(室町時代)
 イギリス司教エドワード3世がボウリング「スキトルス」禁止令を出す。しかし、あまり
 効果は無かったようです。


 1455年(室町時代)
 15世紀の中頃までボウリングは野外で行われていた。しかし、四季・天候に左右され
 ないでボウリングを楽しみたいという愛好家の願望から、イギリスのロンドンに屋内レ
 ーンが初めて誕生。


 1463年(室町時代)
 ドイツ・フランクフルトの大祭典ではボウリング競技会後に鹿肉のディナーで食べる
 習慣があってそうです。


 1492年(室町時代)
 コロンブスがアメリカ大陸を発見。


 1518年(室町時代)
 オランダ・ベルギー・ルクセンブルグでボウリングの勝者に牛一頭が賞品に進呈。


 1529年(室町時代)
 ここから中世ヨーロッパで「ボウリング禁止令」が続出。日曜・祝日もプレー禁止。
 この禁止令がいつ解かれたかは不明。


 1603年(江戸時代)
 江戸幕府はじまる。


 1626年(江戸時代)
 オランダで発祥・育成されたナインピンは、オランダ人のアメリカ大陸移住に伴い、
 ニューヨークのマンハッタンに上陸。


 1626年〜1820年


 アメリカでナインピンズは、約200年の経過をへて全米に広がっていきました。しかし、
 このナインピンズは大流行しましたが、次第にギャンブル目的として使用される事が
 目立ってきました。
 その原因としては、この時は今のボウリングレーン規格は無く、スナックやバー・キャ
 バレーなどの中にも小さなレーンがあり、お酒を飲みながら安易に出来たという背景
 があり、お客同士がボウリングをお金やお酒をかけて勝負するものになった為です。


 1840年(江戸時代)
 アメリカで初めての商業施設のボウリング場としてナインピンズの「ニッカー・ポッカー
 ・アレー」がオープン。


 1841年(江戸時代)
 アメリカ・コネチカット州議会はギャンブルに防止をかけるべく、ボウリング禁止令の
 条例を出しました。続いてニューヨーク州もそれにならい、やがて他の州も同じ様な
 条例を遂行。


 1841年〜1860年
 全米でボウリング空白時代がやってきました。


 1860年(江戸時代)
 ジョセフ・サムという頭の良い人が、9本がだめなら10本にすれば法律にふれない
 だろうと改善したのが、現在あるテンピンズ(10本の配列も考案)の誕生となったの
 です。(既にイギリスに10ピンボウリングはあったという説もある)


 1861年(文久元年)
 6月22日、長崎の出島に日本で最初のボウリング場がオープン致しました。
 この日を記念して、日本の「ボウリングの日」は6月22日と設定される。(1972年)
 この時のボウリングはまだナインピンズだと推察されています。


 1867年(慶應3年)
 徳川慶喜が大政奉還。江戸時代の終焉を迎える。


 1869年(明治2年)
 神戸にもボウリング場誕生。「KOBE−CLUB」


 1875年(明治8年)
 ニューヨークとブルックリン両市にあったテンピン・ボウリング場の9センターから選
 ばれた代表27名で「ナショナル・ボウリング・リーグ」を結成。それまでにあったルー
 ルの改正を行う。この時に制定したファールラインからヘッドピンまでの長さ60フィー
 トは今現在と同じです。同時、両溝のガターも制定する。


 1890年(明治23年)
 ナショナル・リーグに対抗してアメリカン・ボウリング・リーグが設立。1フレーム3投を
 を廃止し、現在の1フレーム2投に定めました。ピンの高さ制定も行い、現在使用して
 いるピンの高さ15インチはこの時に制定されたものが採用。


 1895年(明治28年)
 アメリカン・ボウリング・コングレス(ABC)がニューヨークで発足。ボウリングが巨大
 な大衆スポーツとして大発展をとげる礎石となる。
 そして、再びナインピンズ禁止の悲劇を繰り返さない為にも、競技者の組織化・競技
 ルール・用品用具の統一に乗り出しました。パーフェクトゲームの12連続ストライク
 で300点もこの時に制定。


 1897年(明治30年)
 京都青年会館にボウリング場オープン。


 1901年(明治34年)
 ABC、シカゴで第1回全米選手権大会(ABCトーナメント)を開催。41チーム参加。


 1905年(明治38年)
 ハードラバー(硬質ゴム)のボールが商品化され主流となる。ABCも採用。
 ボール名は「Ever True」


 1909年(明治42年)
 ABCルールにてボールの周囲27インチ、重さは16ポンド以下と制定。これが現在
 のボール規格に至る。
 また、ヨーロッパでは最初のボウリングセンターがスウェーデンに開設された。


 1911年(大正元年)
 大連電気遊園地にボウリング場オープン。


 1916年(大正5年)
 国際婦人ボウリング協会(WIBC)が女性40人によりセントライトで設立。
 この年、第1回WIBCトーナメントが開催された。
 神田YMCAにボウリング場オープン。


 1931年(昭和6年)
 浅草松屋デパートにボウリング場オープン。


 1932年(昭和7年)
 米国ボウリング場・経営者協会(BPAA)がデトロイトで設立。


 1936年(昭和11年)
 米国ジュニアボウリング協会(AJBC)がシカゴで設立。後の1982年にYABAとし
 て統合された。


 1939年(昭和14年)
 アーリーブラントさんが3ゲームのギネス記録、886点を達成。


 1941年(昭和16年)
 第2次世界大戦(太平洋戦争)開戦。


 1943年(昭和18年)
 米国ボウリング協議会(NBC)が組織された。


 1945年(昭和20年)
 第2次世界大戦(太平洋戦争)終戦。


 1946年(昭和21年)
 今までは、ボウリングのピンを立てていたのはピンボーイと呼ばれる人の手作業で
 したが、この年にAMFが世界初の自動ピンセッターマシンを発表。


 1947年(昭和22年)
 ニューヨークで初のボウリングテレビ番組が放映。


 1948年(昭和23年)
 この時代に、ラミネート加工のボウリングピンが登場。


 1949年(昭和24年)
 ボウル・モア社の自動ピンセッターマシンが登場。


 1950年(昭和25年)
 東京初の許可団体として社団法人・日本ボウリング協会設立。しかし、1961年に
 解散となる。


 1952年(昭和27年)
 オリンピックに通じる世界組織として国際柱技者連盟(FIQ)がフィンランドに設立。
 東京・青山に日本に民間初の東京ボウリングセンターがオープン(手動式・20レーン)
 これから約8年間は東京ボウリングセンターでしかボウリングが出来なかった?


 1953年(昭和28年)
 ABCが自動ピンセッターマシンを認証。ピンボーイ時代は終焉となる。
 日本人による第1回ボウリングトーナメント開催。80名の選手が参加する。


 1954年(昭和29年)
 第1回FIQ世界選手権大会がフィンランド・ヘルシンキで開催される。


 1955年(昭和30年)
 アマチュアボウラーによる日本初の任意団体、日本ボウリング連盟が結成される。
 これが後のJBCへと発展する。


 1957年(昭和32年)
 日本人初の300点、パーフェクトゲームを「岩上太郎」さんが達成。


 1958年(昭和33年)
 セントルイスでバドワイザーチームが5人チーム最高記録の3858点(257AVE)
 をマークする。
 米国プロ・ボウリング協会(PBA)がエディ・エライアスの提唱で設立。


 1959年(昭和34年)
 米国女子プロ・ボウリング協会(PWBA)が設立される。


 1960年(昭和35年)
 日本人の公認パーフェクトを「粕谷三郎」さんが日本ボウリング連盟月例会で達成。


 1961年(昭和36年)
 イギリス・テンピン・ボウリング連盟設立。
 三井物産が米国ブランズウィックと合併で、日本ブランズウィック社を設立。
 日本に初の自動ピンセッターマシン登場。東京後楽園ボウリングセンター(AMF)と
 大阪ボウリングセンター(ブランズウィック)の2センター。
 日本がFIQに加盟。


 1963年(昭和38年)
 日本初となる全国規模による全日本ボウリング選手権開催される。(東京タワーBC)


 1964年(昭和39年)
 東京オリンピック開催。


 1964年(昭和39年)
 全日本ボウリング協会(JBC)設立。


 1965年(昭和40年)
 日本ボウリング場協会(BPAJ)設立。
 日本ボウリング協議会(NBCJ)設立。


 1966年(昭和41年)
 「羽鳥義一」さんが、JBC第1号公認パーフェクトゲームを達成。


 1967年(昭和42年)
 推薦プロ19名による、日本プロボウリング協会(JPBA)設立。第1回JPBA創立記
 念大会が開催され、矢島純一プロが優勝。この時代の優勝賞金は30万円でした。
 BPAJ主催の「第1回三笠宮チャリティーボウリング大会」がスタート


 1968年(昭和43年)
 「石川雅章プロ」、プロ協会第1号の公認パーフェクトゲームを達成。
 府中市体育協会にボウリング部門の加盟認証。市体協加盟第1号。


 1969年(昭和44年)
 アポロ11号が人類初の月面到着。


 1969年(昭和44年)
 JPBA女子プロ部門、第1期プロテストにおいて13名が合格。中山律子プロVS須
 田開代子プロの黄金時代、宿命の対決スタート。女子プロ誕生記念トーナメントに
 おいては中山律子プロが優勝。
 群馬県でボウリングが県体育協会に加盟。(県単位の体協加盟第1号)


 1970年(昭和45年)
 中山律子プロがテレビ中継の決勝にて日本女子プロ第1号パーフェクトゲームを
 達成。(於:東日本月例会)一躍人気者となり、ボウリングの大ブームが始まる。
 ボウリングドラマ「美しきチャレンジー」が始まり、視聴率27.2%をマーク。この年
 よりテレビのボウリング番組は週7本放映され、人気番組となった。
 女子アマチュア第1号のパーフェクトゲームをJBC「小野沢幸子」さんが達成。


 1971年(昭和46年)
 山田光雄プロが西日本月例会で、なんと899点シリーズ(3ゲーム)を達成。


 1972年(昭和47年)
 日本ボウラーズ連盟(NBF)結成される。
 日本ボウリング場協会(BPAJ)が6月22日を「ボウリングの日」と制定。
 並木恵美子プロ、年間賞金獲得額が1千万円を越える。


 1973年(昭和48年)
 第1次 オイルショック。


 1973年(昭和48年)
 全国実業団ボウリング連盟(ABBF)結成される。
 全日本ボウリング協会(JBC)が財団法人となる。
 日本ボウリング場協会(BPAJ)が社団法人となる。
 並木恵美子プロ2年連続で1千万円プレーヤーとなる。


 1974年〜1978年
 オイルショック・ドルショック・センター乱立の影響でボウリング場の閉鎖が増加する。


 1976年(昭和51年)
 ABCがボール最低硬度を「75度」と規制する。
 女性だけのクラブ、ジャパン・レディース・ボウリング・クラブ(JLBC)が須田開代子
 プロの働きかけで発足。


 1977年(昭和52年)
 山賀昭子プロ、米国WIBCトーナメント制覇。
 NBCJ主催、第1回ジャパンオープンが開催される。


 1978年(昭和53年)
 ボウリングが第8回アジア競技大会(タイ・バンコク)で初の正式種目となる。
 IOCがFIQを世界ボウリング競技組織として承認。


 1979年(昭和54年)
 全米クイーンズオープンで斉藤志乃ぶプロが優勝。


 1980年(昭和55年)
 WIBCトーナメントで女子チームが優勝を飾る。(斉藤・稲橋・横溝・永井・木村プロ)


 1981年(昭和56年)
 オートマチックスコアラー(自動採点機)が初登場。いわゆるコンピュータボウリング
 の登場です。この時期から平成2年にかけ、各ボウリング場が次々と導入した。  
 WIBCクイーンズ・オープンにて杉本勝子プロが優勝。


 1982年(昭和57年)
 杉本勝子プロ、WIBCを2年連続優勝。
 BPAA・USオープンにて斉藤志乃ぶプロが外国人初の優勝を飾る。
 ヤング・アメリカン・ボウリング・アライアンス(YABA)設立。
 グレン・アリソンさんが3ゲーム合計900点を記録。しかし、ABCはこれを公認せず。


 1983年(昭和58年)
 東京ディズニーランド オープン。


 1983年(昭和58年)
 全日本ボウリング協会(JBC)が日本体育協会に加盟。(41競技目)


 1984年(昭和59年)
 日本体育協会が「第42回国民体育大会・沖縄」にてボウリング競技を公開競技と
 して採用する。
 WIBCクイーンズ・オープンにて稲橋和枝プロが優勝。


 1985年(昭和60年)
 アメリカPBAと日本JPBAの対決、第1回ジャパンカップが東京で開催される。


 1986年(昭和61年)
 第10回アジア競技大会ボウリング競技にて日本選手団が金メダル6個・銀メダル
 5個・銅メダル2個を獲得して注目を浴びる。
 PWBAのジャンヌ・メイデン プロが女子のギネス記録864点(3G)をマーク。


 1987年(昭和62年)
 1988年の京都国体よりボウリングが正式競技として採用されることが決定。


 1988年(昭和63年)
 「第43回国民体育大会・京都」ボウリング競技、正式種目として初開催。
 ソウルオリンピックにボウリングが「エキシビジョン・ゲーム」として登場。日本代表
 の浅井敦子選手が銀メダルを獲得。


 1989年(平成元年)
 日本オリンピック委員会、日本体育協会から独立。JBCも加盟。
 「第44回国民体育大会・釧路」より少年の部も正式実施競技となる。


 1990年(平成2年)
 長崎市に日本ボウリング発祥の地として記念碑が建てられる。


 1991年(平成3年)
 日本プロボウリング協会が文部省(現:経済産業省)管轄の社団法人となる。


 1994年(平成6年)
 第8回アジア大会(広島)にて日本選手が金メダル4個・銀メダル3個・銅メダル
 2個を獲得。


 1995年(平成7年)
 東京に「ボウリング資料館」オープン。
 ボウリング界のスター、須田開代子プロが他界。享年57才。


 

●資料 <NBCJ : INSTRUCTOR'S MANUAL> <BW : BOWLING DIRECTER>
      <サンブリッジグループ創立30周年記念誌>


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